歌、あるいは音楽は、私たちの周りのいたるところにいて、私たちと様々な出会い方をする。
私たちの身体の中にも、血流を始めとして、たくさんのリズムがあり、行動もメロディのようであり、生活や人間関係がハーモニーであることを考えると、私たちの人生もまた音楽だったりする。
だから、音楽との出会いは、私たちの心を豊かにしてくれることが多い。ところが、残念ながら、人間というのはとっても複雑な存在だから、いつも音楽に励まされたり、歓びを与えてもらったり、自分の表現手段として使えたりするとは限らない。
ある曲を聴くと、その曲と密接に結びついて人生のワンシーンが鮮烈に思い出されることがある。以前も書いたけれど、私はNSPの「雨は似合わない」を聴くと、生き方が見えなくてもがいていた大学時代がパッとリアルなイメージとして頭に浮かぶ。
私の場合は、それでも、その歌を聴きたくない、というところまでは行かない。当時に帰って歌とともに当時の自分をいたわってあげる感じだ。でも、100人いれば、同じ曲に対して100通りの感じ方があるだろう。
私たちが心に刻んでおかなければいけないことは、ある歌にあまりにつらすぎる体験が結びついているために、その歌を歌いたくも聴きたくもない、という人もいるということである。
歌は、人の心を容易につかむがゆえに、権力者に利用されることもある。歌にのって残酷な戦争が遂行されるれことすらあるのだ。
今日は、大昔、日本が戦争に負けて降伏した日だ。その過程でも音楽が利用されることはあり、ある特定の音楽を聴きたくない、という人はいまだにいる。
だから、ある特定の歌を、歌わないからといって処分したり、歌うよう命令したりすることはおかしい。それがたとえ国が定めた歌であろうとも。でも、いくつかの地方自治体ではそういうことをやっている。
人の心はそこまで支配できない。音楽が悲しむ。歌を強制される、ということは、いつか歌いたい歌が歌えなくなる、ということも意味する。
いま、8月15日を迎えて、私たちが自分で選んだ歌を自由に歌い、歌いたくない歌は歌わない権利をしっかりと確認したい。