ひょうたん島民は、人を外見や地位・身分や経歴で判断することは決してなかった。その島民たちにしてからが、いろいろなバックグラウンドを持っているか、または全くバックグラウンドが不明なのに、ニワトリに扮した大統領ドン・ガバチョの「コケコッコの歌」で朝が来て(この歌は途中から、顔を洗って朝食に「山盛りご飯をざくざく食べる」というガバチョの1日の始まりになってしまう!)、保安官マシンガン・ダンディの夜回りで1日が終わる、という日常生活をしっかりと維持していた。誰かをいじめるとか、シカトするとか、追い出すなんてことは考えられなかった。
例えば、長身で黒づくめ、サングラス(実はサングラスの下に眼がない。人形美術の片岡昌さんの極端にデフォルメする人形造形がこういうところに活きている)・首に巻いたスカーフ・胸に付けた花、どれをとっても決まっているダンディは、もとシカゴギャングだった。彼は、その過去をけっこう気にしていて、時おりふっとひどく自省的になる。銃に頼りすぎる自分を「昔のオレをキッパリ捨てたはずのこのオレが、昔のオレに頼っちゃいけねぇ」と反省してみたり、ギャングだった人間がいるだけでみんなに悪い影響を与えるから、島から去るか隠遁生活を送っていたほうがいい、と考えて一時的にみんなの前から姿を隠してみたり、子どもたちがギャングにあこがれるといけないから、わざと見苦しく暴れて見せたりするのだ。何を思ったか、自分を考え直すと聖書を読みふけり、サンデー先生と「主我を愛す」などと賛美歌まで歌ってしまうことさえあった。
ところが、周囲の島民たちは、登場時、ダンディの人柄がわかるまで怖がったことをのぞけば、ダンディの過去などまーーーったく気にせずに、逆に頼れる保安官として彼に接し続けた。これは、もと海賊のトラヒゲも同じだ。
一方、ガバチョは、対照的に、自分の経歴をことあるごとに自慢しまくる。生地は、デッパソッパヨーロッパのイギリカ国のドンドン市。外交官の父に連れられ世界をめぐり、オックスブリッジ大学とケンブリフォード大学を始め、7大学を卒業して、57カ国語が話せるというすごさ。ちなみに、卒業論文のひとつに、1日48個、計7万3千8個のキャラメルを食べ続けて書いた「キャラメルの皮と国際政治との関係」があり、結論は「無関係」! 大統領になってからもことあるごと演説をしたがり、「ドンガバチョ回顧録」を暇さえあれば書き、「わたくしは、私を深〜〜〜く尊敬するものでありますぞ」なんて自画自賛を何のてらいもなくかけてしまう人物なのだ。
しかし、島民たちは、そんなガバチョに対して、簡単に命令に従ったりはしない。演説を始めようとすると、「うるさい!」と一蹴されてしまうこともしばしばだった。彼の経歴など島で役に立った試しはな……いや、外国語(と動物語がいくつか)が話せたことだけは、変わった訪問者とのコミュニケーションのために役立っていたっけ。
そして、サンデー先生と子どもたちに至っては、出自は全く不明だった。どういう学校にいたのか、子どもたちに親はいるのか、「家」へ帰りたくはないのか、こうした疑問にはいっさい答えがないどころか、そのヒントさえ全く出て来なかった。だから、まるで子どもたちは、「子ども」という職業を演じているかのようで、親のしがらみがないからこそ、自在に行動し、大胆に発言し、奔放に生きて、ひょうたん島の行動力の象徴となっていた。お互いがお互いを、しっかり「個人」として認識し、「個人」として扱い、それぞれの行動に対していろいろ語られ評価されることは合っても、人格を云々されることはなかった。
こんなコミュニティだから、ひょうたん島にやってきたさまざまな人間や動物たち、ひょうたん島が接岸(衝突)した国の住人などに対しても、態度は全く変わらない。
例えば、「乞食主義」を掲げる長髪の男性、パレンチ・コートが島にやって来たことがあった。「ポストリアシリーズ」の時だ。彼は、質素なジャンパーと洗いざらしのジーンズを身にまとい、「世界のどこでも家になる、自由で豊かな心を持てる乞食になろう!」と説いて回った。「世間の常識」にてらして考えれば、「怪しい」「警戒すべき」「へんな」来訪者になるところだ。しかし、島民たちは、逆に興味を持ち(もちろん、いちばん何物にも縛られていない子どもたちが真っ先に話を聞こうとした)、彼が設立した「乞食大学」へ入学するまでになる。最後は、博士に、「みんなが乞食になったら、誰が生活に必要な品々を生産するのか」というあまりにまっとうな問いかけをされて、彼の底の浅さがばれるものの、島民たちは、パレンチの外見で彼を排除するなんてことはいっさいなかった。
ちなみに、この「乞食主義」が、「ポストリアシリーズ」が放映された1968年当時、世界的な流行となっていた、ヒッピーというライフスタイルのパロディーであることは明白だ。サンフランシスコで生まれたヒッピーと呼ばれる若者たちは、既成の価値観にこだわらず、自由と平和と花を愛し、ロックを生み出し、「ラブ&ピース」を合い言葉に、服装も職業も生活も、自分で選ぼうとしていた。そのスタイルそのものは商業化の流れに組み込まれて光を失ってしまうけど、ヒッピーたちの発想は、アフリカ系の人たちの公民権獲得の運動、そして、女性の権利、さらには同性愛者の権利を獲得する活動につながる流れをしっかりと形成した。
人を見かけや肩書きや出自で判断しないことが、テーマになっているのが「ランニングホーマー一族シリーズ」だった。マリー・アントワネットを思わせる、美形で気の強いマリー・キャッチャーネット・ランニングホーマーが、「とうがん島」に乗って強引に親に勧められたスイスの学校へ向かう途中で、ひょうたん島と衝突してこのシリーズが始まる。なかなか活き活きした女性キャラクターがサンデー先生とチャッピ以外登場しなかったひょうたん島にあって、三つ編みにした髪を長くたらしたマリーが大活躍するシリーズだった。なお、海を漂流している島は、ひょうたん島以外にも、この「とうがん島」などいろいろあるらしく、パレンチ・コートは、後に「ゴールド岬島」に乗って再来する。
そのマリーは、体格がよくてワイルドだが人のよさそうな大金持ちの父、センターバック・スコアボールド・ランニングホーマーの成金生活に反抗し、センターバックの叔母で貴族のドビン・ポットにもなじめずにいた。彼女は、このチャンスに自分の生活を自分で切り開こうと、ひょうたん島で暮らそうと決意、島民たちに伝える。
もちろん大賛成な島民たちは、スイスの学校にもう着いたとウソの手紙を書くなど、マリーが島で暮らせるよう、考え抜いていろいろな手を打つ。しかし、ひょうたん島に隠れていることがあっさりばれ、センターバックとドビン・ポットがやって来ることになる。
まず島民たちがとった作戦は、ひょうたん島を貴族の島ということにして、マリーが住むのにふさわしいと訴える懐柔策だった。街を貴族風に大改造し、全員が貴族だということにしようと(名前も変える。ガバチョは、摂政関白太政大臣藤原のゴム長……)、サンデー先生の指導で貴族の言葉まで勉強する。あいさつは全て「ごきげんよう」、「そばがソノジ、ねぎがネモジ、エビがエモジ……」(言葉を全部言わないのが上品とされていた)といった具合に。この時、とりあえず「世間の価値観」を代表しているサンデー先生は、「言葉でわかる生まれや育ち」などと語るが、すぐその後、タテマエよりホンネで動いて、センターバックとの野球大会に地を出して燃えたりする。こうした人間の二面性を最もよく表していたのが他ならぬサンデー先生だった。
島民たちは、芝居を見せ、狩りに行き、合唱を披露し、必死に「高尚さ」を作り出そうとするが、ニセ貴族を見破るのが得意というドビン・ポットは、島民が貴族をかたっていることをすぐ見抜いてしまう。そして、ロビン・フッドの末裔という「由緒正しき」貴族であるドビン・ポットは、スポーツもゲームも芸術も、「暇にあかせて金つぎ込んで、みんな貴族が考えて、作ってあげた」ものだと鼻高々に自慢して譲らない。
こうなると、島民も「正攻法」でいくしかない。どうしてもここに住みたい、ときっぱり自己主張をしたマリーを応援し、ドビン・ポットと対決する。ところが、ここから話はややこしくなってきて、なぜかセンターバックが「ダイコンオロチ」なる怪物に化けてみんなを脅かすのを楽しみ始める。結果的には、「ダイコンオロチ」を退治したことにして、ドビンの信用を得て、「これならマリーを安心して預けられる」という言葉を引きだすのだが、同時に、ドビン家と海賊ガラクータ(も元貴族)が300年前に、ひとつの柿の実で争って以来の、かたき同士であることが判明。最新鋭の、笑いが止まらなくなる細菌兵器「ウフゲラミーバ爆弾」まで登場する「決闘」が果てしなく続くことになってしまう。
この争いに決着を着けたのは、なんとセンターバックだった。実は、彼自身も、金持ちの生活に耐えられず、島で受けた歓迎の中でいちばん楽しかったのは日頃やれない野球大会であり、遊びでなってみた「ダイコンオロチ」生活だったのだ。マリーのまっすぐな気持ちにも動かされた彼は、決闘が痛み分けに終わった後、ドビンを無視して、マリーをひょうたん島に預けるときっぱり宣言する。ドビンが「みんな貴族が考えて、作ってあげた……」と歌っても、もう島民も「だからどうだっていうの!」と突き放して相手にしない。
そこへとんでもない知らせが島に届く。掘っていた石油がぱったりと止まり、センターバックが破産したというのだ。この時、センターバックが、社長として人望が厚かったことが社員からの手紙でわかる。彼は「たとえ一時でも、あなたのようないい人の下で働くことができたのを、心の底より誇りに思います」という社員からの手紙に感激し、社員にとうがん島と全財産を与える(なぜかガバチョが、彼を慰めんと「えらい!」とおだてて、いっしょに「銅像」になろうと勧め、ふたりで銅像になったりする。ガバチョがなりたかったのだ)。ドビンは大きなショックを受けるが、プライドがじゃまをして、「貴族」ブランドが通用しないことを受け入れらけず、強がりを続ける。
その後、センターバックが行く末を考えているうちに、ひょうたん島で温泉を掘り当てて(といっても石を投げたらたまたまあたりどころがよくて温泉が噴き出しただけ)大騒動になる。「自分の腕で自分の金を稼ぐことがどんなに大事か」と、彼が肉体労働をいとうことなく励む姿や、何でもアイデアを出しては温泉からいろいろなプロジェクトを作っていく島民(特にトラヒゲの商魂)のたくましさを見て、ドビンは、少しずつ考え方を変えていく。
結局、センターバックとドビン・ポットは、その時たまたまひょうたん島にいたシナリオライターのトンカチーフを加えた3人で、ドビン・ポット劇団を結成。新たな生き方を求めて、いかだに乗って世界巡業の旅に出ていく。もちろん、マリーは島に残り、この後、2年間島民として暮らす。
この話には、後日談があり、2年後、劇団として大成功したドビン・ポットが再び島を訪れる。この時のドビンの変身ぶりに、島民たちはびっくり仰天する。
まず、ドビンは、星空の下で暮らす喜び、つまり野外生活の楽しさを歌い出す。星はシャンデリア、草はフトン、降る雨はシャワー、吹く風はクーラー、と。立ち居振る舞いまで庶民的になっており、トラヒゲがここぞと儲けようと高級ホテルに改装したデパートにも泊まらずテント暮らしにこだわる。その後の「不幸と幸せ紙一重」、つまり長い劇団としての下積み、その後交互に来る失敗と成功のくり返しが彼女を鍛えていたのだ。
ただ、最終的に再び金を得たセンターバックは、精神的におかしくなってしまい、マリーにヘルプを求めてやってきた、というのがドビン来島の真相だった。
子どもたちは、「ひとりじゃない」という歌を歌って、マリーをにパワーを与え、マリーは、父の代わりに社長になるべく、ドビンとともに島を去るのだった。
このように、「ランニングホーマー一族シリーズ」では、ドビンに代表される上流社会の実態とその矛盾が、そして、成金の悲哀とゆがみとが、細かく描かれ、人は、地位や身分で生きるものではない、というストーリーが見事に展開されていた。ひょうたん島では、まず現れた人間や動物を「あるがまま」に受け入れ、交流し、ぎくしゃくすることもいとわず、じっくりと新しい関係を作っていく。事前の予断など邪魔なだけなのだ。