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 高校講師の時、生徒たちが中学時代に学校から受けた受けた人権侵害(恋愛は早いとラブレターを破られた、など)を『先生!ビンタはむかつくぜ』(三一書房)で告発。それ以来、生徒の個性や表現力を抑えるような学校のシステムに対して、異議申し立てや改革の提起を続ける。

 最近では学校に頼らず、自分を知り、自分を肯定的に受け入れ、自分らしく生きるための手だてを、カウンセリングやワークショップを通じて身に付ける方法を創出する努力を続けている。法政大学「教育原理」および千葉大学「教育相談」の非常勤講師、千葉県教育委員会のスクールアドバイザーもつとめる。法政の授業記録は『大人にも読める思春期ガイダンス』(明石書店)としてまとめられた。

 
おもな教育関連書籍
大人にも読める思春期ガイダンス 人間の数だけ生き方がある 自分らしく生きる 先生! ビンタはむかつくぜ 東大一直線
 
『大人にも読める思春期ガイダンス』
第2章 伊藤悟の自己分析 小学校編
■正義感の強かった小学校時代 より

 

 この章では、小学校時代の伊藤悟がどんな世間の壁にぶつかってきたのか、それに対してどんな対処をしたのかを分析していきます。

 私は小学校2年生くらいまで、非常に正義感が強い子どもでした。不公平なこと、理不尽なことに対して「おかしいな」と思う気持ちが強かったのです。明らかにそれは親の影響だと思っています。

 父は、よくテレビを観ながら、政治とか国際問題で理不尽なことがあると「なんかおかしいよね」と語っていました。また、自分の仕事に乗じて起きた出来事でも理不尽だなと思うことがあると、そのことについてよく母親と話していました。

 それを横で聞いていた私も、「それって理不尽な世の中だなぁ」という形で同感しながら、両親の影響を受けてもいました。そうした正義感のベースは親の影響でできたものだけれども、私自身、それは悪くないなと思っています。今の自分が、あらためてそうした親の影響を自分で選択したという形でしょうか。

 そんな正義感の強かった私が最初にぶつかった壁があります。それは、世間の常識というよりは、担任の常識でした。

 いまも当時も珍しいことですが、私は小学校3年から5年までの3年間、担任がずっと同じ男性の教員でした。これは、とてもきつかったですね。

 というのは、最初に担任からある否定的なイメージを持たれてしまうと、なかなかそれを変えるのは難しいということです。途中で担任が変われば、「また再スタートが切れるぞ」と子ども心にも思えますが、3年間ずっと同じ担任でしたから再スタートができない。「あっ、今年もまた同じ担任か……」という感じで、とりわけ5年の時はショックでした。

 私の担任は気分屋で、よくえこひいきをしていました。最初から「えこひいきをする先生だな」というのを感じていましたが、それがより具体的な形となって現れるようになったのが、小学校3年の途中からです。

 

 
■班競争

 

 私の小学校時代は、班競争が取り入れられていました。クラスを5〜6人単位の複数の班に分けて、班ごとに勉強を競わせたりゲームを競わせたりするんですね。競争させることで子どもたちが伸びると信じられていたのです。

 この班競争は、ちょうど私の小学校時代=60年代後半に、全国の小・中学校で流行っていました。今ではかなりすたれましたが、残っている学校もあります。

 班競争といっても、いろんなパターンがあります。掃除、ベルマーク集め、読んだ本の数といった勉強を絡めないバージョン。もちろん勉強を絡めるバージョンもあります。それから、ただ競争に力点を置く場合もあるし、班の中での助け合いに力点を置く場合もあります。それらを組み合わせる場合もありました。

 私の担任の班競争がどういうものだったかというと、単純に勉強で競わせるというパターンでした。例えば小テストをやりますよね。そうすると各班ごとに全問正解が○人、×1つが○人、×2つが○人……という形で競わせるわけです。

 ×1つを「1バツ」と言ってましたね。「1バツの人○人。2バツ人○人」と言いながら、それを点数計算して、黒板に書いてある各班の名前の横に数字を入れていくんです。名前だけはかわいくて、「りす」とか「こねずみ」とか、動物や花の名前が付いてました。

 名前はかわいくても、やらせていることは競争なんですね。要は単純にテストの点数で生徒を班ごとに競わせるだけのもの。あとは、うるさくしていると減点。授業態度とテストの点数だけなんですね。

 この班競争には、いろいろな問題や不公平が生じていましたが、教師のフォローはほとんどありませんでした。例えば、班の中にテストが全部バツだった子がいるとします。そうすると当然減点されますから、その班の成績も下がります。そこで成績の悪いメンバーがいじめられる、なんてことも起こりました。

 その教員は、成績がふるわないためにいじめられる子どもへのフォローをしていませんでした。そして班競争の際には、気分屋の性格とえこひいきが露骨に出ました。例えば、騒いでいても、たまたま自分の機嫌がいいと減点しない。その教員が目をつけた子どもは、ちょっとおしゃべりをしただけで「はい、減点!」と言って減点をする。一方で、お気に入りの子が騒いでいても、あんまり減点しない。

 そうしたことがジワジワと積み重なっていって、ある時、私の中で限界に達してしまいました。今でも自分の中に強烈に残っているんですが、小学校3年のある時、私はスッと手を挙げて、「先生! かるべくんの今の5点引きは不当です!」と言ったんですね。自分でもすごい子だなと思ったりしますけれども、教員はほとんど無反応でした。シカトですね。「関係ない。はい、授業戻って。進めます」という感じで、私の意見は軽く却下されてしまいました。

 いきなり小学校3年で、私にはすごい壁になりました。先生が理不尽である、不公平である。同じように騒いでいても減点したりしなかったりする。なんかおかしい。えこひいきしないでほしい。公平にしてほしい。やはり子どもだから班競争で勝ちたいと思ってしまいます。負けてもいいやとはなかなか思えない。

 その後も、何度か教員に「おかしい」ということを言いました。しかし、異を唱えても待っていたのは、「うるさいよ伊藤は、だまってなさい!」と怒られるか「ああ、わかったわかった、はい次ね」と軽い扱いをされるか、あるいは無視されるかでした。

 こうなると、なす術がなくなってくるんですね。友だちは担任にあまり反抗するとヤバイなと思っていて、味方もいませんでした。

 実は、私は父親の仕事の都合で小学校2年までに3回も転校していて、友だちの作り方を学習できないでいました。要するに友だち作るのが下手な子どもだったんです。だから、味方を作る方法も、その時はわからなかったんですね。結局私は、教師に対してなにも言わないのがベストなんだ、ということを学習しました。これが私が最初にぶつかった壁。小3〜小5の時の担任の対応でね。 小学校5年のクラス替えの時は「担任が変わったらどんなにいいだろう!」と、相当期待していました。ところがフタを開けてみると、同じ担任。当然、ものすごいショックを受け、あきらめの境地に達しました。

 さらに悪いことは重なるもので、小学校4年の3学期にとてもショックなことが起こりました。その頃の学校は今と違い、小学校から5段階相対評価を採用していました。5段階相対評価というのは、生徒の成績を上から5・4・3・2・1と振り分けて付けていくものです。一応、1と5は7%、2と4が24%、3が38%と割り振られていますが、生徒の気持ちを配慮して2や1の割合は少なくしている学校が多かったのです。

 しかし、ここには重大な欠点があります。5段階相対評価は、子どもの成績が統計学的に推計されたグラフ通りに必ず分布するという前提があって初めて成り立ちます。この推計はかなり大人数の集団でないとあてはまらないので、50人程度のクラスでは、これに当てはまらないような場合が山のようにあります。また、これでは全員が100点をとっても、5・4・3・2・1を付けなければなりません。こうなると、教師のえこひいきも当然入ってきます。

 私は小学校4年の3学期に、5段階相対評価で体育で1をもらいました。1をもらう子どもは、50人のクラスで7%とすると、3.5人しかいないことになります。当時の新聞には、5段階相対評価を批判する記事などもよく載っていましたから、そこに書いてある数値を当てはめてなるべく1を付けないという情報を知れば、小学校4年の私でも計算できて、「自分は体育がクラスでビリなんだ……」と思ったんですね。これは子どもながらにものすごいショックでしたよ。小学校4年の3学期に体育で1を取って、トボトボと終業式の日に一人で校門から出て家に帰った、という自分の姿がかなりインパクトに残っていいます。

 それが輪をかけて、私は学校に対して本当につまらないな、行きたくないな、と思うようになりました。結局、3年間同じだった担任のために、私は「正義感を発揮するのはよくないのかなぁ」と思うようになって、それを取り戻すまでにずいぶん時間がかかりました。

 体育を除いた私の成績はまあまあ良かったので、それで補ってどうにか学校に行けるバランスが取れていたのだと思います。ただ成績を別にしても、学校自体はもうイヤでたまりませんでした。とにかくその担任の授業を一日中受けるわけですから、こんな苦痛なことはありません。中学校に早く行きたかったですね。「中学に入れば、科目ごとに先生が替わるのか。いいなあ」みたいなとも思っていました。

 



■不登校という選択肢がない時代


 小学校4年生5年生の子どもが、学校に行きたくない気持ちが募ってくると、どうしたらいいんだろうって思っちゃいます。なおかつ友だちの作り方も下手で、あまり友だちもいませんでしたから。小学生にとっては、学校に行きたいと思えるための要素として、友だちがいるかいないかが、とても重要なんですね。ですから、仮病を使って学校を休んだこともあります。しかし、学校をずっとさぼるのはまずい、という気持ちもなぜかあったんですね。

 不登校というのは、いろいろな問題を含んでいますから、ある子どもが不登校になる理由を一般化して語ることはできません。ただ、今は不登校に対してフォローするフリースクールや、不登校になってもそれは仕方がないんじゃないかと応援してくれる人もいます。

 しかし私の小学校時代は、「子どもが学校に行かないなんてとんでもない!」というのが世間の常識でした。この縛りが今よりももっと強くて、ほとんどの人が“学校に行かない=人生の落伍者”くらいに思わされていたんです。つまり不登校という選択肢のない時代ですから、「行きたくない。でも行かざるを得ない。どうしよう!」と思っていたんですね。■不登校になれなかった私が学校で居場所を作った方法

 何とか学校を自分の居場所にしたい。居場所がないのは辛い。でも、今の自分には、学校に居場所がない。そこで私はどうしたか? 

 小学校5年の2学期に、ある事件が起きたんです。5年生を受け持つ担任グループのアイデアで、4科目(国語・算数・理科・社会)のテストの平均点のベスト10が発表され、それが貼り出されました。ベスト10に入った子どもの名前と平均点を露骨にドーンと出したんです。

 いまは、テストの順位を露骨に名前付きで張り出すような学校はとても少ないです。私立だとまだありますが、公立ではかなり減りました。しかし、当時は受験戦争が激化し始めた頃で、私はその影響を受けた団塊の世代の次の世代ですから、そういうテストの点数発表があってもおかしくない時代でした。

 そこで見たものは何か? 自分の名前がそこにあったんですね。4科目のうちの2科目がベスト10に入っていました。そこで私が何に気づいたのかというと、ベスト10の上位に入った生徒は、担任にほめられる、えこひいきされるんですね。それで「自分の成績をアップさせて担任にかわいがられれば、居心地がよくなるかもしれない」と考えたわけです。

 小学校5年でそこまで思い詰めるというのは、それだけ居場所がなくて自分が崖っぷちに立たされていたのだろうと思います。子どもにとって、学校に居場所がないというのは、それほど切実なことなんです。

 それからちょっと勉強してみたら、小学校6年の1学期にかなり成績が上がりました。担任もやっと変わりました。6年の担任は、5年までの伊藤悟をよく知らない。そこで成績が急にグンとアップ。というわけで、担任は私だけに「伊藤この本を読んでみろ」という感じで話しかけてくれ、超えこひいきされ、かわいがられました。

 人間って弱いですね。私はもともと正義感が強くて、えこひいき反対派だったのに、自分がえこひいきされると、ころっと変わってしまう。

 今ならばもっと自分という意識が確立されてますが、あの時はまだ子どもでしたから、えこひいきされる喜びの方が、どんどん勝っていきます。こうして「勉強する」→「成績が上がる」→「担任にほめられる」→「自分の居場所ができたような気がする」という流れにはまっていき、小学校6年の時は相当勉強をしました。この「学校の中で居場所を得るためには、勉強して、テストでいい点数を取って教員に気に入られればいいんだ」という考え方を、私は高校時代の半ばまで持っていました。

 「自分が今やっていることは、本物の自分が望んでいることと違うんじゃないか?」という疑問を持つようになったのは高校2年くらいからですが、私は開成中学(中高一貫の男子校)に入ってしまいましたから、大学受験が当たり前という独特の雰囲気の中で、自分の疑問を半ば強引に封殺していました。自分を本格的に問い直し始めるのは、大学に入ってからです。

 学校という空間の中では、えこひいきをしようと、気分屋であろうと、教員が「正義」なんですね。私は小学校3年の時に始まった「担任という壁」=「世間の常識」に対して、最終的には迎合していきました。小学校3年の子どもが、教員という壁と闘うのは、ほとんど無理だと思います。なるべく疑問を持たないようにして、教員の言うとおりにして良い成績を取ることが自分にとっ価値があるんだ、という選択をするようになったんですね。後に、とても後悔することになるわけですが。

 ただ、この年齢になってあのころの自分を振り返ってみたときに、それが全部マイナスだったとか、意味のないことをしたとは思っていません。あの経験あったからこそ、わかったこともたくさんあるわけですから。

 ただ、大学に入った時は、そういう選択をしてきた自分をすごく嫌悪してましたね。「教員にゴマをする、いい点数を取る伊藤悟は嫌いだ」みたいな感じで、自分を責めていました。そういう葛藤が、今の自分を確立する過程の中にずっとあったんです。

 これは、自分を例にした学校における「壁」の話ですが、「壁」は学校に限らず、どこにでもあります。親や友だちとの間にもあるでしょうし、職場にもあるでしょう。人生の中でいろんな壁にぶつかるのは当然で、自分というものができればできるほど、ぶつかるものが増える場合もあります。「世間の常識」に迎合した自分をゲットすれば、葛藤は少ないかもしれません。

 もちろん、壁にぶつかった人の葛藤には個人差があります。葛藤が少ない人もいれば多い人もいる。葛藤に対する対処の仕方も、人それぞれ様々です。しかし、人間が自分を確立していく過程で何らかの壁にぶつかるの確かであり、その壁の多くは「世間の常識」なのです。

 

 

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