両親によれば私はすでに、3〜4歳の頃からヒット曲を覚えては、いつでもどこでも大きな声で歌を歌っていたようで、外出先のバスの中で「田舎のバスは おんぼろ車 デコボコ道を ガタゴト走る〜」[田舎のバス/中村メイコ]と私が歌いだした時はとてもはずかしかった、とよく語っていた。
「粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪」[お富さん/春日八郎]「もしもし ベンチでささやく お二人さん」[若いお巡りさん/曽根史郎]なんていう大人の恋の物語まで意味も分からず歌っていたという。いまは認知症で介護施設にいる母親も、いろんな歌のメドレー(ミックス?)を大声で歌っsて施設の人気者になっているというから、母親の影響もあるのかもしれない。
小学校へ上がる頃にはテレビで始まった日本初のチャート番組「ザ・ヒットパレード」(フジテレビ系・渡辺プロダクション制作)を欠かさず見て、毎週1位から20位までをこまめにメモしていた。
小学校5年のときから“歴史に残る”テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」(NHK)に熱中したことも音楽好きに拍車をかけた。「ひょうたん島」はまるでミュージカルのような構成で、セリフから切れ目なくいきなり歌が始まるのが面白くて、また次々と歌われる曲のメロディが新しくて、挿入歌を覚えては歌って楽しんだ。「ひょうたん島」の挿入歌の作曲を担当していた宇野誠一郎さんは、いまで言うラップも含む斬新なリズムを使い、ポップなメロディを惜しみなくつぎ込み、なんでも楽器にしていろいろな音をミックスし、当時としては最先端の音楽を紡ぎ出していた。私の耳が肥えないはずはない。
そして中学生の時、ラジオで「ベストテン番組」というジャンルがあることを知る。歌謡曲(邦楽のことを当時はそう呼んでいた)とポップス(洋楽のことを当時はそう呼んでいた、洋楽風の邦楽を含むこともあった)に分かれていて、ヒット曲を毎週10曲以上しっかり聴くことができた。こんな楽しい番組があるだろうか。中学を卒業する頃には、ベストテン番組をできるだけたくさん聴いてはランクを記録して、少ない小遣いの中から最もお気に入りのシングル盤を考え抜いて買いそろえる生活が始まっていた。
高校に入ると自分のオリジナル・チャートを作るようになり、ジャンルも何もかまわずにヒット曲番組にかかる曲を聴きまくった。というか、私にはジャンル分けそのものが理解できなかった。私にとってはどれも「ヒット曲」という同じくくりの音楽だったから。
1967年、日本で最初のチャート誌&本格音楽業界誌「オリコン」が小池聰行氏によって創刊される。ラジオ番組で紹介しているのを聴いて、どうしても読みたくなった私は、「オリコン」本社に小池氏を直接訪ねて熱弁を振るい、安い購読料で毎週読めるように計らってもらった(○○ページ参照)。
大学に入ると、急に増えた「時間」という武器を最大限に利用して、中古レコード店を何軒も回り歩き、それまで買えずに涙をのんでいたヒット曲たちを集めまくった。もちろんこの頃はまだ7インチのアナログ盤シングルである。
その後私は拘束を嫌い、ネクタイよりもジーンズを選択して、自由に生きる道を選んだ。そのために仕事はひんぱんに変えたが、現在に至るまで、ヒット曲収集をやめる気は一度も起こらなかった。そんな生き方を選んだからこそ、「悲しいこともあるだろさ 苦しいこともあるだろさ」(「ひょっこりひょうたん島テーマソング」)の人生、ヒット曲に励まされ、自分の内面から様々な可能性をひき出してもらったからだ。
80年代後半にひょんなことから、ラジオの深夜放送番組に5年近くかかわり、雑誌に音楽の原稿も書くようになったため、「音楽業界」との接点ができた。しかし業界の内部を深く知るということは、夢が消える、ということでもあった。ラジオ局やレコード会社や音楽プロダクションの人間は、みんな音楽が好きで好きでたまらなくていい人ばかりだろう、なんていう想像は「大甘」。利権や見栄や出世や金や人脈のために、音楽やアーティストが翻弄されるところもたくさん見てしまった。
それでも、ヒット曲収集は楽しかった。「オリコン」に加え90年代に入ると、あこがれの「ビルボード」も購読できるようになり(1997年にオンライン化される)、「ビルボード」のシングルチャート(Hot
100)にチャートインした曲を全部集める、という長年の「夢」だった趣味の実現にいよいよとりかかる。のちには「オリコン」でも試みた。
この「全曲収集」は、米国で「シングル」の概念が、アナログ→カセット→CD→発売なし、と激変していく中で、様々な工夫が必要となり、苦労の連続だった。でもそれがまた、たまらなく心地よい「苦労」だったりもした(○○ページ参照)。今も続く私の大事な「ヒット曲」発掘作業だ。
しかし、CD が売れ、ヒットチャートの上位に顔を出した曲だけが「ヒット曲」なのではない。アルバムの中にひっそりと置かれた1曲でも、全くヒットせず誰も覚えていない曲でも、その歌に支えられ救われることだってある。そんな「私だけのヒット曲」も大事にしたい。
つまり音楽には、人間の内面の波長に感応して、その人の様々な可能性や生きるちからを引きだし、人生の伴走者となりうる計り知れないパワーがあるのだ。そしてどんな歌がその人に感応するかは個人個人によってまったく違うところがまた面白い。
ただ、残念ながら、権力を持った者がそのパワーを使って特定の方向へ国民を導くなど、それが悪用されることもある。その際、特定の歌を歌うことや演奏することが強制あるいは禁止される。現に日本の一部の学校には、ある歌を教員や生徒・学生がきちんと歌っているかどうかチェックして、歌っていないと処分しているところがある。
無理やり歌わされる歌がかわいそうだ。歌は自由に歌ってこそ、心から楽しめて、気持ちが解放されるのだから。「歌わなければならない」歌はもちろん、「歌うべき」歌さえないはずだ。そして私たちは、歌いたくない歌を無理やり歌わせようとする動きを押しとどめていかないと、歌いたい歌もいつか歌えなくなることだろう。
さらに、歌詞が人を傷つけてしまう場合もある。言葉に対する感じ方は個人差が大きいが、せっかくの音楽が、もし聴いて不愉快に思う人が多い言葉を使うことで価値を下げてしまうとするならば、歌詞による表現にも慎重さは必要だ。
とはいえ、歌の持つちからはやはり偉大だ。沖縄の人たちは、「さとうきび畑」を歌うことによって、反戦の想いを強く共有するそうだ。2004年10月、台風23号のために、京都府舞鶴市でバスに乗っていた37人の人たちがバスの屋根の上で一夜を明かした時、何度も何度も「上を向いて歩こう」や童謡を歌って支え合ったという。今回本文では紹介できなかったけれど、歌によって自殺を思いとどまったり、希望を持つことができたりした多くの人が私のブログに手記を寄せてくれている。
「私を支える歌」は「人とつながる歌」でもある。歌によって心穏やかになり、自分を肯定的に受け入れて生きていこうという気持ちになれば、自分以外の人間を受け入れる心の余裕ができてくるからだ。
そんな音楽のちからがじゅうにぶんに発揮されれば、ヒット曲は世界を変える。