この原稿を書いている8月24日は、北京オリンピックの最終日である。どうしてもテレビと情報の関係について考えたくなる。
開会式で、足跡に見立てた花火が一歩一歩会場に近づいていく映像のほとんどが、当日の空撮が困難だという理由でCGで合成されて放送された。「革命歌曲」を歌った少女は口パクで、「国家利益」の視点から実際に歌った子どもの容姿が不十分だったからだという。中国各地の56民族の衣装を着た子どもたちが行ったパフォーマンスもすべて漢民族の子どもだった。当局は、これらの「演出」は当然の「表現」形態だ、と主張している(ここまでは新聞各紙の報道から)。
一方、開会式の演出家たちが上からの圧力で自身の思う通りにできなかったという声や、実際に歌った子どもがとても傷ついている、といったレポートがネット上ではたくさん掲載されている。
ここでもっとも危険なことは、「だから中国は……」という論法である。もちろん中国もたくさんの問題を抱えており、それを批判するのはたやすい。しかし、こうした現実をおおってしまう「表現」は、テレビという媒体があった上で成立していることを忘れてはならない。
ある国で起こったことを、CGや口パクやパフォーマンスを工夫して、まったく違う実態に見せかけることが簡単にできる、というのがこの開会式問題の本質だ。日本のテレビ局でも日常的に行われている。当事者の声よりも、政府関係者や学者・評論家の意見ばかりを流しているのだって、ひとつの「演出」でひとつの「表現」だと担当者はいうだろう。学校で事件が起きると、子どものことをもっとも知らない可能性が高い校長にしかマイクを向けられない、というセンスのなさはまったく改められていない。
これから私たちは、ニュース映像からバラエティまでテレビの映像が伝えるものに対して、そこから「事実」を知るためのトレーニングをしていかなければならないだろう。ある新聞のコラムに、記者の子どもがテレビを見ていてCGを見抜いたので驚いた、と書かれていた。そこまで私たちは鍛えねばならない。
ふと見たモーニングショウの画面には、後ろのスタジオやニュース映像が見えなくなるほどの情報があふれていた。時刻、天気予報、番組予告、状況説明……なんと占いまであり、その種類も変わる!
数秒で変わるこれらの文字たちをチェックしている人がどのくらいいるのだろうか。テレビはとことんカン違いをしている危険なメディアになってしまった、と思うしかない。
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