窓辺 第9回「母親は何を思うのか」
[静岡新聞 2007年8月29日 夕刊1面]

 

 介護施設にいる母に会いに行くと、その時の体調によるのでしょうか、気分がうつろうのでしょうか、受け取る「気」は毎回違っています。認知症が進んでいて意志を確認することはできませんが、もう少し生きていることを楽しみたい、とにこやかにしているように感じる時もあれば、93年も生きたのだからそろそろ呼ばれたいよ、と達観しているように見える時もあります。

 私の母は、足が弱って外出が困難になり、聴力が落ちて電話で人と話すこともままならなくなり、家に閉じこもるようになって認知症が現れ、急激に進行していきました。母親が「今までの」母親でなくなっていくことに私は動揺しました。

 ひとりで家事を全面的にやるようになり、さらに介護が加わり、落胆と消耗を続け、燃え尽きる寸前まで行って介護施設に母親を入れる決心をしました。共倒れになってしまうからです。だから「きれいごと」の介護論は信じません。介護疲れの中で短時間に何度も食事を要求されたりすると、切れそうになることもありました。

 そして今、この国の介護のしくみの貧困さに気が遠くなりそうです。どの機関へ行っても、自宅で介護するべきだというプレッシャーを受けます。公営の施設は少なく何百人待ちがざらで、民間の施設に入れると最も金がかかるのに公的な援助は最も少ないことにもそれが現れています。介護に携わる人たちのペイもきわめて悪く、過労による事故や手抜きがあってもおかしくないほどの水準です。

 ただ生きていればいいのか、認知症の人はどんな生活をしたいのか、介護する側をどう助けるのか、ホンネから出発した介護のあり方は見えてきません。こんな不安だらけの国が「美しい」と言えるでしょうか。