窓辺 第8回「『議論』の意味」
[静岡新聞 2007年8月22日 夕刊1面]

 

 国会では「強行採決」が当たり前となり、反対意見が全く反映されないまま、法案が法律になっています。力づくで決めるてもかまわない、という合意が出来てしまっているかのようです。

 一方で「ディベート」は大はやりで教育にも取り入れられています。しかし「同性愛はいいか悪いか」など変えられない人間の属性を問う、当事者がいたら傷つきかねない、善悪の判断になじまないテーマが無神経に取り上げられる場合も多く、自分の意志に反して賛成や反対を述べることから、人を言い負かすテクニックだけが磨かれることもあります。

 インターネットでは、人をどうしたらおとしめ不快な気持ちにさせるかを競うように、攻撃的な言葉が「的」になった人に集中しています。また、北九州市で生活保護の辞退届を書かされて孤独死した男性の内面を推し量れる役人はいなかったのでしょうか。

 以上のことには三つの問題が潜んでいます。まず、議論に勝って優越感を得ることが目的な「議論好き」の人が増えており、人間一人ひとりの違いを前提に「折り合い」をつけるために話し合う、という原点が忘れられています。

 議論の前提である「自分の意見」を持てない人も増えています。これは学校教育の「成果」で、自己表現を許さず、あるいは自己表現の方法を教えないから、討論となると自分の感性で考えられなくなるわけです。

 そして世の中には議論では解決しないこともある、という事実もないがしろにされています。戦争や公害や差別で苦しんでいる人たちの声に虚心に耳を傾けるのではなく、そういう人たちの感情のありようという、否定できない部分まで論破して否定してしまう……。

 ひょうたん島民の意見をじっくりと聴き続けたドン・ガバチョ大統領を見習いたいものです。