「ゲゲゲの鬼太郎」がまたまた脚光を浴びている。4月1日からフジテレビ系で放送が始まるが(原稿を書いているのは3月)、何と5度目のアニメ化になる。1968年に最初にアニメとなり、以下各年代、つまり約10年ごとに放送されていることになる。
さらに4月28日からは、人気デュオ WaT の一人、ウエンツ瑛士が鬼太郎を演じる実写版映画が全国公開される。すでにキャラクターグッズも新しいものが発売され、半世紀にわたって人気を維持している。
タイトル通りメイン・キャラは鬼太郎であるはずなのだが、アニメや映画の宣伝でも人気面でも、目玉おやじの存在感が異彩を放つ。「おい、鬼太郎!」「わしなんじゃが……」といった定番の決めぜりふは世代を超えて記憶に残り、今回も「目玉」になっている。
5回のアニメ化で、鬼太郎の声は4人が演じているが、目玉おやじはずっと田の中勇が独特の声を保って担当し続けている。CGで登場する映画ももちろん田の中の声で、アフレコスタジオに立ち合ったスタッフたちは、彼の声でCGに命が吹き込まれる過程を見て異様な興奮に包まれ、鬼太郎役のウエンツも感激したという。
目玉おやじは、妖怪界に通じていて、厳しく鬼太郎に示唆する一方、茶わん風呂につかるのが好きで、いいかげんでヌケているところも見せてくれる。感情表現も豊かで、感性もしなやかだ。
これはしかし、目玉おやじだけに言えることではなく、妖怪すべてが、そうした面を多かれ少なかれ持って描かれている。このあたりに50年にわたって人気を博してきた秘密がある。そしてとりわけ今の時期に求められる必然性があるように感じる。
このところ、いろいろな人間がいて人間関係もダイナミックに変化していくものだ、といった柔軟な人間観が影をひそめ、善か悪かといった2分法的発想で、誰彼問わず、神様のように持ち上げたかと思うと徹底的にたたく現象が目に付くようになってきた(例えばホリエモンに対して)。
それに対して妖怪は、とってもあいまいな存在で、また妖怪それぞれのキャラクターも見事に違っている。人間との関係も状況によって変化していく。本来、人間もその延長線上にいたはずなのに、妖怪的な存在が許されないようになりつつある。そこで目玉おやじが「困ったもんじゃのう」と言い放つことに意味が出てくるのだ。
さらにアニメの1回目では、古い祠(ほこら)を壊していた中学生を、それに怒った妖怪・水虎が誘拐する設定で始まる。古い文化と新しい文化の共存、それも、どちらかを選択するのではなくて、うまく「折り合い」を付けていくテーマが「鬼太郎」には多い。これも今もっとも大事なことのひとつである。
私たちはきっと、まだたくさん妖怪たちから学ばねばならないのだ。「ゲゲゲの鬼太郎」はその間ずっと続いているかもしれない。