2007年は、人間関係に優しさや温かさが戻り始める年になるだろうか。心もとない。そんな時代にテレビが果たすべき役割を二つにしぼって提言したい。その材料として、昨年11月17日に伊吹文科相が子どもたちや保護者に向けて発表した、いじめに対する「文部科学大臣からのお願い」を取り上げる。
伊吹文科相は、いじめられている子どもたちには「だれにでもいいから」「いじめられていることを話すゆうきをもとう」「きっとみんなが助けてくれる」、いじめている子どもたちには「ひきょうなこと」でのちに「ばかだったなあと思う」より「今、やっているいじめをすぐにやめよう」と訴え、実際に文章も読み上げた。
しかしテレビは、文科相の言葉に説得力がなく「作文」でしかない空しさを見事に映し出していた。ところがテレビは、それを活かして、こんなメッセージではいじめがなくならないことを追及しようとしない。
いじめの構造は複雑だ。誰かに話してもとり合ってくれず、誰にも助けてもらえないから、死ぬことまで考えてしまう。いじめる側もそれ以外の自己表現を知らないから、人をいじめてやっと自己確認する。周りが傍観せざるを得ない「正義」のない学校、そして社会……。文科相のメッセージから、いろいろな番組や特集がつくれる。お笑いだって、文科相を風刺していくらでも「ネタ」がつくれるではないか。テレビは、そんな絶好のチャンスを逃して、あっさり他の話題へ移っていく。
次に、文科相がこのようなメッセージを発したのは、今回が初めてではない。10年前の1996年にもアピールをしている。いじめの問題はたまたま今顕在化しているだけで、80年代以降、学校内で絶えず起こり続けているのだ。
こういう「歴史性」にどうして注目しないのか。いじめの前には校内暴力があり、子どもたちのエネルギーが外から中に向きを変えたことがわかる。その前には管理教育があり、それに子どもたちが抵抗したことがわかる。管理教育は学園闘争を再発させない「よい子」を作るようなシステム……。今までいじめが問題になった時にはどこかの局が、こうした日本の教育の流れをドキュメンタリーとして検証していた。
さらに「現在性」もほとんど深く取材しようとしているように見えない。今や、職場や家庭や地域でも、いじめと大差ない人間関係が展開されている。ネット上では、匿名性をいいことに、言葉の暴力が吹き荒れている。そうした社会全体とのつながりの中で「いじめ」を分析して見せてくれる番組はほとんどない。ならばせめて対処療法を、と思っても、現場を知らない評論家の空論が垂れ流されているだけだ。
テレビにかかわる人たちにお願いする。もっと事件を掘り下げ、歴史や関連した領域と結びつけながら、人間の生き方ひいては社会のあり方まで透けて見える番組を、今年こそ見せてほしい。