私は東京大学理科1類をやめて、「なつかしの」集中型丸暗記「勉強」で、東京大学文科3類に合格しました。実際、文系科目、特に社会科には、丸暗記はより有効でしたから、さらなる充実感を持つことができました。今度は自分の意志で進路を選んだ、などという、カンちがい的「自負」もありました。
しかし、再び私が自分の生き方を見失うのにそう時間はかかりませんでした。授業は「わからない」部分は減ったけれども、私の興味をかき立ててはくれませんでした。そもそも自分は将来何をしたいのか、何も考えていなかったことがすぐに自分に対してバレました。社会や政治の現実に対しては実感が湧かないままでした。そして何にもまして寂しかったことに、相変わらず友だちが作れないでいたのです。
人間は、未来が見えなくなると「過去はよかった」と懐かしむことで精神のバランスを保つことがあります。私もそうでした。用もないのに開成へ出かけていき、教員や後輩に会いました。その時間がいちばん楽しかったのです。開成の文化祭で知りあった中学生とは交流が生まれ、大学へ行かずに彼らとだべっていることが生きがいのようなものでした。
人間の転換点というのは不思議なものです。その中学生たちは「開成を問う有志たち」というグループを作って活動していました。彼らは、開成の成績至上主義を批判していました。メンバーの一人が、不得意な数学でたまたま勉強する気になっていい点を取ったら、担当の教員が信用せずカンニングだと決めつけて、どう説明しても取り合ってくれずに、最後は「今回は許してやる」で終わったことに泣いた、と私に訴えてきました。そして、彼らと仲よくなるにつれて、私が開成で教員への迎合も辞さずに「優等生」の位置をキープし続けたことに対しても、容赦なく批判が浴びせられました。
半年のつきあいの中で、彼らの開成批判の行動も教員たちに潰され、私との関係もぐじゃぐじゃになって、キャンパスに戻らざるを得なくなった時、私の中で何かがはじけました。
私は、自分が抱える問題に本気で向き合わないといけない、とやっと思えるようになりました。自分の価値観や蓄積された情報は、自分で選び取ったというよりは、開成という環境に身を任せ、自分のものにせずにほとんど無批判に取り入れたものでした。そんなメッキはすぐはげます。私は、自分の過去を検証し、ゼロに近い状態から自分の生き方を探し始めねばなりませんでした。それは初めはとても苦しいことでした。もしかして、私はとってもとっても大事な中学・高校時代にみんながやっている「模索」や「葛藤」を経験しないでここまで来てしまったかもしれない、と気付いたからです。徹夜で友だちと語り合ったこともなかったし、背伸びして大人のまね(それが酒・たばこなんてたわいもないことであったとしても、恋愛という人間を学べる大事なものであったとしても)をしたいと思ったけれど抑えてしまったし、トップ維持と東大合格に不要な知識(特に社会問題)は切り捨ててしまったし……。
とにかくひとりでは何もできません。まず「バドミントン同好会」を作りました(このサークルだけ今も残っていて今年で創立31周年です)。スポーツもやりたくてできなかったことでしたから。ここでは、人をまとめる大変さを体験し、ケンカもし、わがままを通したり引っ込めたりし、感情をあらわにしたり抑えたりし、人間関係について一から学び直しました。恋愛もしました。
もう授業に出ている暇はありませんでした。「もう一つの大学」「教育をよくする会」と立て続けにサークルを作りました。「勉強」ではなく「学習」をやり直しました。いろいろな活動をしている人の話を聞く、大学の外へも出ていっていろいろなことを見てくる、そして、自分の今までの生き方を問い直してみる作業をしつこく続ける。
そんな中で、「自分は『教育』によって青春を奪われた」と考えるようになり、教育学部へ進学します。そんな中で、自分らしさを少しずつ思い出し、自分自身が本来持っていた「正義感」「好奇心」「素朴な疑問を持つ力」を取り戻していきます。それでも限界はありました。大学生(それも東大生)という限られた人間関係の中では、人間の多様性について、あるいは広い視野や複数の物差しを持つことについて、実感を持って認識できるようになるのはさらに先のことになります。
私は結局、留年を3回し、再受験も含めて8年かかって東京大学教育学部を卒業しました。その後もまだまだ「自分探し」の旅は続くことになりました。それはまたの機会にして、次回=最終回は、私の「受験勉強」についてまとめたいと思います。
[つづく] |