日本人は、人生のいろいろなプロセスを「修行」「修練」「鍛練」に例えることが好きなようです。スポーツはその格好の素材で、メディアは競ってスポーツ選手をドラマティックに描き出し、「苦しみや挫折に打ち勝って勝利をゲットした」という展開がいちばん好まれます。何かを求めて自分をいじめ、栄光を得るわけです。オリンピックでは、さらに「お国のために」がミックスされて感動を盛り上げます。だから、「楽しく」「自分のために」スポーツしているなんてことは言い方を間違えると、バッシングの対象にさえされかねません。
高校野球などは大変です。野球を楽しんではいけないらしく、高校野球連盟が生活態度までうるさく口を出し、堅苦しい「優等生」として野球をとり行わなければなりません。茶髪も超長髪も派手なユニフォームも禁止または自粛です。校則違反には連帯責任も待っていてがんじがらめです。
私が中学・高校時代を過ごした「開成」でも、夏休みのことを、「夏期鍛練期間」と呼び、休むんじゃないんだ、常に「鍛練」を怠らず、東大を目指すんだ、とたたき込まれました。「受験」も、苦闘の末に合格なんてストーリーがありえるので、スポーツに負けず劣らず、ドラマにされています。
しかし、よく考えてみると、スポーツも受験も、人生という長い旅路の中の一コマにすぎません。それに匹敵する、あるいはそれをしのぐ大切なことはいくらでもありますし、その結果が金メダルや東大合格であったとしても、残念ながら、その後の人生を豊かに幸せに暮らせる保障には必ずしもなりません。プロ野球やJリーグで華やかに活躍していても、引退後、人生に苦労する人はたくさんいます。その時、スポーツ以外のことを全くして来なかったことが自分の視野や行動力を狭めていることに気付いて、がく然とする人もいるそうです。
ですから、私の言うところの「受験道」は、受験を人生の至上として味わいつくす、といったイメージとは正反対のものです。というか、そもそも「通過儀礼」でしかない「受験」を極めるなどということがありえません。
私は、「受験勉強」を「修行」「修練」「鍛練」から解放し、できるかぎり「楽しく」後の人生に役に立つように(「自分のために」)やっていけることを証明したいと思い続けています。だから、「受験道」の「道」は、明るい日差しがたっぷり差し込む、あるいは木漏れ日が舞う川沿いの、あるいはしっとりと落ち着いた森の中の、歩いていて心地よい道々です。「歩く」のにはエネルギーが要り、「歩き出す」にはきっかけが必要です。でも、せっかくそうやって「道」を選ぶのならば、今までの忍耐と疑問を持たないことと暗記ばかりが強調されるつまらない「道」ではない別の道があることを知ってからにしてください。私が「道」案内をしますから。 |